神内神社

御神体である巨大な磐座の頂部と境内を覆う樹叢 紀宝町

三重県紀宝町神内にある「神内神社 (こうのうちじんじゃ) 」。
古くから安産祈願の信仰を集め、別名を「子安の宮 (こやすのみや) 」や「子安神社」とも称するほか、近隣の漁師からは豊漁の神としても厚く信仰されている。木造の本殿を持たず、巨大な磐座そのものを御神体として祀る古い祭祀形態を今に伝えている。

神内神社の基本情報 (アクセス・参拝データ)

所在地
三重県南牟婁郡紀宝町神内958
御祭神
天照皇大神、天忍穂耳命、彦火瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊
例祭日
11月23日 (例大祭)
アクセス
【車】「新宮駅」より車で約10分。
【電車】JR紀伊井田駅より徒歩約20分。
駐車場
あり (無料、鳥居付近に約20台分)
鳥居前に整備された砂利敷きの参拝者用駐車場
ストリートビューで周辺を確認する
参拝時間
自由
備考
宗教人類学者・植島啓司氏の「日本の聖地ベスト100」(2012年) 10位選出
問い合わせ先
0735-33-0334 (紀宝町役場 企画調整課 観光係)

御神体の磐座

遠方から望む御神体の巨大な磐座

高さ約100mにおよぶ巨大な磐座
拝殿の背後には社殿 (本殿) を設けず、御神体として祀る巨大な岩壁 (磐座) がある。この岩壁は流紋岩質溶結凝灰岩や石英粗面岩 (熊野酸性火砕岩類) で構成され、高さは約100mにおよぶ。表面には規則的な割れ目や、風化・侵食による凹凸が見られる。

御神体である巨岩の磐座と石灯籠
御神体である巨大な磐座の岩壁と無数の水蝕穴
御神体である巨大な磐座の頂部と境内を覆う樹叢

磐座の上部からは周囲の木々が枝を伸ばし、頭上を覆っている。

古代の自然崇拝を今に伝える御神体の巨岩「磐座」
岩壁の水蝕洞穴(自然成岩窟)に祀られた祠と奉納された無数の白石

水蝕洞穴と奉納された白石
岩壁の下部には水蝕によってできた洞穴があり、その中央にある約六尺 (約1.8m) 四方の岩窟が礼拝の対象となっている。岩窟の手前には石垣が組まれ、上面には奉納された白石が敷き詰められている。

水蝕洞穴の自然成岩窟内に佇む祠と奉納瓶子(石製徳利) 礼拝対象の御神体

岩窟の中には木造の小さな祠が置かれている。祠の左右には「奉」「献」と刻まれた石造の瓶子 (徳利) が並び、榊が供えられている。社殿を持たず、巨岩そのものを神体として祀る構造である。

蘇りの木

拝殿左側に立つクスノキの巨木「蘇りの木」
拝殿左側に立つクスノキの巨木「蘇りの木」の案内看板

拝殿の左側には、「蘇りの木」と称されるクスノキの大樹が立っている。

拝殿左側に立つクスノキの巨木「蘇りの木」と幹に癒着した樹木

後方から見ると、斜めに伸びた別の木が幹の中央付近で癒着しているのが分かる。

拝殿左側に立つクスノキの巨木「蘇りの木」の根元
拝殿左側に立つクスノキの巨木「蘇りの木」の空洞から覗く境内の風景

根元には大人が1人通り抜けられるほどの空洞がある。この空洞を通り抜けることで再生や誕生を祈願する風習があり、安産祈願の「子安の宮」とされる神内神社において象徴的な存在となっている。

クスノキの巨木「蘇りの木」の根元に横たわる台風で折れた大枝

根元付近には、2009年10月の台風で折れた大きな枝がそのまま置かれている。

鳥居と御神木の安産樹

一の鳥居と社号標

2026年1月の改修により、石造鳥居は石肌が見える状態まで磨き上げられた。

鳥居の傍らに大きく斜めに傾いて立つ御神木 安産樹 (ホルトノキ)

鳥居の横には、三重県指定天然記念物であるホルトノキの御神木が斜めに傾いて立っている。

御神木のホルトノキ「安産樹」

樹齢700余年、幹周4.20m、樹高20mにおよぶこの大樹は、根元の板根が大石を巻き込んでおり、その姿が子供を抱いているように見えることから「安産樹」と呼ばれている。

御神木「安産樹」の駒札

ホルトノキ、樹齢七百余年、鎌倉時代から幾代にわたり、氏子が受け継いで来た大切な樹で大きな自然石を抱ている安産の神の樹として崇められている
(郷土資料群より抜粋)令和八年一月 田尾和生

引用:安産樹 駒札
神内神社の御神木「安産樹」の根元に腰掛け、カメラを見つめる女性のポートレート

根元のくぼみは、人がすっぽりと収まるほどの大きさを持つ。

セッコク

5月に見頃を迎え御神木 安産樹 (ホルトノキ) の樹上に群生するセッコク
御神木 安産樹 (ホルトノキ) に着生して咲くセッコクの花

例年5月中旬から下旬にかけて、このホルトノキの樹上に着生したセッコクが開花期を迎える。
初夏の訪れを告げる出来事として地域のニュース等で取り上げられるほか、開花に合わせて参拝者が訪れる。

境内の植物採取禁止と天然記念物保護を伝える告示札

境内は植物採取が禁止されている。

告示
神内神社宮司
此処、神内神社の境内は 三重県指定の
天然記念物となっています
樹木・シダ類及びセッコク・カンラン等の
採取を堅く禁じます
カンラン寄贈者
川原田豊 竹内行雄

引用:境内 掲示板

拝殿と奉納されたよだれかけ

巨岩に挟まれた石段の先へと続く拝殿

参道の突き当たりで右手を見上げると、岩壁の狭間に伸びる石段と、その先にある社務所と拝殿が見える。

拝殿への石段登り口に設置された昇降時の注意喚起の案内板

2026年1月、石段の登り口に案内板が新設された。

御注意
この階段は途中に踊り場がなく、長いため昇降時は細心の注意をお願いいたします、階段自体は比較的やわらかい石で出来ていて、滑りにくい構造ですが、小さなお子様やご高齢の方は、踏み外しやつまずきに十分注意して、手摺りを利用してください
今後も清掃等事故防止に努めてまいりますのでよろしくお願いいたします

引用:階段登り口 案内板
社務所壁面に奉納された無数のよだれかけ (スタイ) と拝殿へ続く石段

社務所の壁面には、参拝者が安産や無事な成長を祈願して奉納した無数のよだれかけ (スタイ) が掛けられている。

御神体の磐座を背にして建つ拝殿と朱色の手摺りがついた石

御神体の磐座を背にして建つ拝殿。

拝殿内部に掲げられた天照皇大神など祭神五柱の木札

拝殿内には五柱の祭神の名を記したお神札が掲げられている。

神祭
天照皇大神
天忍穂耳尊
彦火瓊々杵尊
彦火火出見尊
鸕鶿草葺不合尊

引用:拝殿内のお神札

授与所・社務所

授与所・社務所内部の全景と祭壇、千羽鶴

左側の無人の授与所(社務所)内部には神棚や参拝者用の記帳台、安産祈願の授与品が整えられている。

無人の授与所に用意された安産祈願のスタイとお札 (神札) ・お守り

台の上には、安産祈願の白いよだれかけ (スタイ) や神内神社の神札、各種お守り、案内冊子が並べられている。無人の授与所となっており、参拝者は初穂料を納めて授与品を受ける形式となっている。

授与所・社務所内部に掲示された安産祈願スタイの代金と由緒を記した案内
授与所・社務所内部の祭壇前に用意された安産祈願の白い奉納石

岩窟内の三つの諸社

境内右側の岩窟前に立つ「神武天皇御社」社号標

参道を進んで右手には、岩窟 (拾石窟) に並ぶ三つの諸社がある。岩窟内には神武天皇・明治天皇・佐倉宗吾を祀る祠が設置されている。

岩窟内に並ぶ神武・明治天皇御社および佐倉宗吾宮の誘導看板

2026年1月の改修により、各御社の本殿や案内看板、石碑が刷新された。

岩窟へと続く参道階段の修理を記念して建立された石碑

参道修理
平成十五年十月
阪本正文
竹鼻三代治
竹内行雄

引用:参道修理 石碑
岩窟内に並ぶ各御社と岩壁

岩窟内には、神武天皇、明治天皇、義民・佐倉宗吾を祀る三つの御社が並ぶ。

神武天皇御社

岩窟奥部に祀られた神武天皇御社の本殿祠
岩窟内に祀られた神武天皇の由緒と東征を解説する案内板

神武天皇
神武天皇は、九州日向(ひむか)で生まれ、国の中心大和を目指して東征(とうせい)する。
生駒越えを試みたもののナガスネヒコに阻まれ、兄を失う
日神の子孫らしく日を背にして戦おうと熊野、吉野へ迂回し
宇陀、磯城での戦いに勝って国中に入り、葛城、添等も平定して橿原宮で初代天皇として即位する

神内神社では、この宮の入り口に神武天皇の石碑を建て初代天皇としてお祀りしている

(県民だより奈良より抜粋)

引用:神武天皇御社 案内板
岩窟内に祀られた神武天皇御社の主な祈願を記した案内板

神武天皇御宮の主な祈願

一、安産祈願、交通安全
二、厄除祈願、長寿祈願
三、国家安秦、五穀豊穣、他

神武天皇が初代天皇として即位した橿原神宮の御利益と同じです

引用:神武天皇御社 案内板

明治天皇御霊

岩窟内に祀られた明治天皇御霊の祭壇と木製社殿祠
岩窟内に祀られた明治天皇の御事績と由緒を解説する案内板

明治天皇
1867年十六歳で、第122代天皇となる。翌年、五箇条の御誓文を出し、新しい国造りの基本方針を定める
1889年、大日本帝国憲法を発令し、近代国家の基礎を作る

天皇の思想として強かったのが国を治めるには、まず臣民の気持ちを第一に考えなければいけないということ。そのため明治前期においては、地方行幸を頻繁に行うなど、臣民の生活を常に気にかけていました

このような天皇を当時の神内の臣民が尊び、御霊(みたま)として御祀りしています

引用:明治天皇御霊 案内板
岩窟内に祀られた明治天皇御靈宮の主な祈願を記した案内板

明治天皇御霊宮の御祈願

一、縁結、夫婦円満、家内安全
二、合格祈願、必勝祈願
三、商売繁盛、厄除け、開運

明治神宮と同じご神体のお宮祈願事項もほぼ同じものです

引用:明治天皇御霊 案内板

佐倉宗吾宮

岩窟前に立つ「佐倉宗吾宮」の石碑正面
佐倉宗吾宮の石碑裏面に刻まれた紀元二千六百年記念と奉納者名

佐倉宗吾宮

昭和十五年十一月十日建

紀元二千六百年記念

奉獻
地當
森岡まさ五十才
更谷まさの四十七才
岩本あさ四十三才
阪本はつ三十二才

引用:佐倉宗吾宮 石碑
岩窟内部にある佐倉宗吾宮の木製社殿と木製社号標
岩窟内の佐倉宗吾宮横に設置された由緒と案内を記した案内板

佐倉宗吾宮
佐倉宗吾宮につきましては、当神社鳥居前の掲示板にて、紀宝町教育委員会より、詳しい説明がなされています
ぜひ御一読ください

下総国(千葉県)佐倉藩印旛郡公津村の名主
佐倉宗五郎は民のために奮起して単身直訴に及んだ義人としてお祀りしています

(抜粋)神社総代

引用:佐倉宗吾宮 案内板

参道と夫婦杉

杉木立が立ち並ぶ参道

樹叢に包まれた参道には杉の巨木が並び、右手には寄進石柱が配置されている。

参道脇に立つ「一金五百圓」などが刻まれた寄進石柱
参道脇に立つ「一金一萬五千圓」と昭和四十六年の刻印がある奉納石柱

一金一萬五千圓
昭和四十六年六月十七日
當地氏子
荘司半三郎

引用:参道 寄進石柱
参道左側に立つ「夫婦杉」

参道の左手には「夫婦杉」が立つ。

参道脇に立つ「天然記念物 神内神社樹叢」の社号標石碑

参道脇には「天然記念物 神内神社樹叢」と刻まれた社号標石碑が立つ。神内神社の境内一帯を覆う原生林は、昭和16年 (1941年) 12月2日に「神内神社樹叢」として三重県の天然記念物に指定された。熊野酸性岩の巨大な岩壁を着生基盤とし、クスノキの巨木やホルトノキ、シダ類など約300種におよぶ貴重な植物群落が保全されている。

境内から神内川へと続く石段

参道の脇を流れる神内川には、水辺へと続く石段が整備されている。

巨岩の前に配置された手水舎と狛犬

右手には、巨大な岩壁を背にした手水舎が設置されている。

手水舎の石鉢と水を出す龍の吐水口
手水舎横の岩壁に設置された龍の口と手摺りの奉献銘板

奉献
一、龍の口
一、手摺り

竹鼻三代治
阪本正文
竹内行雄
田尾順司
前田正
下沢深
川原田保

平成十六年十一月吉日

引用:手水舎 石碑
拝殿下に配置された石造狛犬 (吽形)
拝殿下に配置された石造狛犬 (阿形)

現在、拝殿下に据えられている狛犬。かつては神内神社の南約100mの場所にある「古神殿」に安置されていたとされる。

拝殿下の左手に立つ「祈願 五穀豊穣 氏子の幸福 交通安全」の石碑と狛犬
拝殿下に立つ祈願の石碑と奥に狛犬

祈願
五穀豊穣
氏子の幸福
交通安全

昭和五十二年 十二月 吉日

当地氏子 田中三代太郎 建立

引用:拝殿下 石碑
拝殿下に並ぶ「一金壹佰圓」などが刻まれた5本の寄進石柱
拝殿下に並ぶ寄進石柱

入口の巨石と境内案内板

駐車場脇に置かれた古神殿入口の巨石と酷似した形状の巨石

入口付近にある巨石は、「古神殿」の入口左側にある巨石と酷似している。

神内神社(子安の宮)

(神内名所の子安の宮は可愛い産子の守り神)

引用:神内神社 案内板
入口に設置された神内神社樹叢と由緒を解説する大型案内看板

入口には「神内神社樹叢」と由緒を記した案内板、および境内社「佐倉宗吾宮」の案内板が設置されている。
神内神社は、安産や子授けの信仰を集める地として知られている。

三重県指定天然記念物 昭和十六年十二月二日指定
神内神社樹叢(こうのうちじんじゃじゅそう)
所在地 紀宝町神内字近石九五八番地

神内神社は、石英粗面岩(熊野酸性岩)の岸壁をご神体として祭った原始宗教の名残りのもので、多数の水蝕洞穴があり岩面には着生植物が多い。神社の境内には着生植物、シダ植物を含めて約三〇〇種の植物が繁茂している。
この森すべての植物を保護することは言うまでもないが特に保護保存に心がけねばならないものをあげれば、木本類ではクスノキ(巨木)、ホルトノキ、イヌマキ、ミサオノキ、ヤマモガシ、アラカシ、タカオ、カエデ、ヤマビワ、イスノキ、オガタマノキ、カンザブロウノキ、イヌガシ、ナギ、モッコク、シダ植物では、キクシノブ、ナンカクラン、タカノハワラボシ等は珍しく貴重なものである。

神内神社(こうのうちじんじゃ)(子安神社(こやすじんじゃ))
所在地 紀宝町神内字近石九五八番地
祭 神 天照大神(あまてらすおおかみ)
天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
創 立 「明細帳」に不詳とあり、棟札には天保七年二月再建とある。

由 緒 「明細帳」に「当社の義は近石と申すところに逢初森(アイソメモり)というのがあり、そこに伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)天降らせ 一女三男を生み給う、この神を産土神社(ウブスナジンジャ)と崇め奉る、よってこの村の名を神皇地(コウノチ)と称す。いつの頃よりか神内村(コウノウチムラ)と改むと言い伝う」とあり。明治三十九年十二月二十五日、三重県告示第三八〇号を以って神饌幣帛料供進社に指定される。社殿は自然成岩窟にして空間六尺(約一.八メートル)四方あり、境内六反八畝一〇歩。近郷の人、子安の神、安産の神として参詣するもの多い。また豊漁の神として近隣の漁師の信仰厚い。

(紀宝町発行「文化財を訪ねて」抜粋)(神内神社所蔵文書抜粋)
紀宝町教育委員会

引用:神内神社 入口 案内板
入口付近に設置された境内社・佐倉宗吾宮の歴史と由来を記した案内看板

佐倉宗吾宮

鳥居を潜って十六メートルすすんだ右手山側に、大きな岩窟(拾石窟)があり、神武天皇や明治天皇をお祀りし、その脇の岩屋に佐倉宗吾宮がある。
何時の頃どういう理由でここに祀られたかについての記録はないが、おそらく徳川時代初期の重税に苦しめられた農民を救うために、自分だけではなく家族も極刑になることを覚悟の上で直訴におよんだ宗五郎を神として敬い、大飢饉による餓えと年貢の取り立てに苦しめられるなかで、重税の軽減を願って、嘉永年間に祀られたものと思われる。
徳川時代後期の神内村は、見えて千石隠れて千石と云われる豊かな郷であった
天明(一七八三頃)の冷害による大飢饉、更に天保(一八三三頃)の大飢饉が、ここ紀州地方をも襲い、食べ物を求めて来て、行き倒れとなった人々が見られたという。
佐倉宗五郎については、いろいろな異説もあるが、江戸時代初期の承応二年(一六五三)徳川四代将軍家綱が寛永寺参詣の折り行列に、堀田正信苛政の訴状を差し出した。その結果、加重年貢は免除されたが、佐倉藩主堀田正信の激怒にふれ、宗五郎と妻は磔獄門、四人の子供は打ち首となる。
領主堀田正盛の時代はそれ程でもなかったが、息子正信が領主になるや、軍備拡張に異常なまでの意欲をもやし、急に苛斂誅求(人民から税金その他を厳しく取り立てる)に転じた。その重税に苦しむ村が二〇〇ヶ村、他領に逃げ出す者一七〇〇人に及んだという。
下総国(千葉県)佐倉藩印旛郡公津台方村の名主佐倉宗五郎は、この村々の総代として、義のために奮起し単身直訴に及んだ義人である。
神内神社の元宮司阪本源十郎氏宅に、佐倉藩印旛郡 鳴鐘山・東勝寺製作の、宗五郎霊像の古い掛け軸が残されている。東勝寺に依頼しての調べで、寛永年間に製作されたことが判明した。
宗五郎は 嘉永年間(一八五一頃)に義人として歌舞伎に登場するや、一躍全国にしられるようになった。
江戸後期には百姓一揆に宗五郎の義が重んじられ、明治時代には自由民権運動の先駆者として登場し、宗五郎義民伝として定着した。
更に、昭和の時代は金銭恐慌、そして戦争と敗戦を経験しつつも、宗五郎物語は新たな解釈を伴いながらつづいてきた。
二十一世紀に入ったこんにち、義人宗五郎は平成の農業政策をみて、我々に何をかたりかけているだろうか。

平成二十一年十一月吉日
紀宝町教育委員会

引用:神内神社 入口 佐倉宗吾宮 案内板

表忠碑

駐車場エリアに立つ表忠碑の正面

駐車場エリアには、日露戦争等の戦没者を祀る表忠碑が建てられている。

駐車場エリアの表忠碑傍らに設置された由緒を伝える案内板

表忠碑

明治時代の日露戦争の戦没者や戦争従軍者を表記しています。設置時の文献がありませんので詳しい事はわかりませんが、従来より神内にお住まいの方なら、なじみのある名前があると思います、貴方のご先祖かも。ぜひ一度裏面を御覧ください。

神社総代

引用:表忠碑 案内板
駐車場エリアにある表忠碑の背面に刻まれた戦没者らの銘文
裏面。

案内板に従い裏面へ回ると、郷土の戦没者の名が刻まれている。

神内神社へのアクセス

子安の宮 (神内神社) への案内看板

県道141号を走行すると「子安の宮」の案内看板がある。ここを右折する。

分岐を示す看板

続いて分岐の看板を左折。

境内手前の駐車場

約200m進むと鳥居前の駐車場に到着する。

神内神社の周辺地図・駐車場

駐車場
あり (無料、鳥居付近に約20台分)
鳥居前に整備された砂利敷きの参拝者用駐車場
ストリートビューで周辺を確認する

神内神社でのポートレート撮影。銀塩フィルムのKodak PORTRA 400を用い、撮影をおこなった。

神内神社から南へ約100mの場所にある古神殿
奈良時代以前の神殿と伝わり、かつては現在の神内神社の「本宮」としての役割を担っていたとされる。

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