尾鷲市九鬼町(Kuki Town, Owase):近代化の波に呑まれず「ガードレールのない風景」を残す奇跡の漁村
三重県尾鷲市(Owase City)に位置する九鬼町(Kuki Town)は、急峻な地形と海が織りなす制約の中で、今なお「ガードレールのない風景」という日本の原風景を色濃く留める漁村である。新宮市、那智勝浦町、熊野市へと続く紀伊半島の海岸線において、元旦に行われる奇祭「にらくら祭り」の文化や、国指定天然記念物の九木神社樹叢、そして「九鬼ブルー」と称される深い碧の海が融合。生活と神域が混ざり合うその姿は、風景撮影を志す写真家にとって、歴史と現代が境界なく共存する極めて稀有な記録の場である。
写真家 kumanokodonet:FUJIFILM GFX(中判デジタル)とKodak Portra 400(中判フィルム)による九鬼の記録
全国誌カメラ雑誌のフォトコンテスト受賞多数。新宮市(Shingu City)観光フォトコンテストでの受賞実績を誇る。本記録では、中判デジタル FUJIFILM GFX の圧倒的な解像度と、中判フィルムカメラによるKodak Portra 400(ポートラ400)の有機的な粒子感を使い分け、九鬼の質感を多層的に描写。デジタルが捉える「空間が割れるような生々しさ」と、フィルムが描く「記憶のように平坦で心地よい調和」を高度に融合させ、ガードレールのない岸壁や真巌寺の巨木、寒椿といった九鬼の息吹をプロフェッショナルな視点で記録している。
三重県尾鷲市九鬼町(Kuki)でのポートレート作品制作:被写体モデル募集(Model Wanted)
新宮市(Shingu)を拠点に、那智勝浦町(Nachikatsuura)、三重県熊野市(Kumano City)、本宮町、串本町、古座川町、紀宝町、御浜町、そして尾鷲市(Owase)まで。一過性の記録ではない、数十年後も価値を失わないポートレート作品の制作を展開。「にらくら祭り」の伝承が残る広場や、真巌寺の赤い鳥居が連なる石段など、生活と神域が混ざり合う重厚な世界に身を委ねられるモデル・被写体を募集している。詳細は「モデル募集」のページを参照。
境界線のない海と路



「安全」という檻を超えた、奇跡の風景
かつて、日本の道にはガードレールなどなかった。
1960年代以降の車社会の到来とともに、各地の沿岸部は鉄の柵で区切られていったが、三重県尾鷲市九鬼町には、今も生活のすぐ隣に海が広がる風景が残っている。


現代の一般的なルールに縛られず、昔ながらの姿を保ち続けてきたからこそ成立している「ガードレールのない風景」。
足元からすぐに海が始まるその場所には、九鬼町が守り抜いてきた、ありのままの美しさがある。

潮風が運ぶ、新しい風と光の粒

そんな時が止まったような漁村の風景の中に、ふと現れる色鮮やかなワインボトル。
海沿いのレストラン「Amail(アメイル)」の空き瓶たちが、冬の光を透かし、海面の反射と混ざり合って宝石のように輝いていた。


いつかこのレストランで気の合う誰かと、ゆっくりと流れる時間を過ごしてみたい。
九鬼の時間を生きる、隣人たち

レンズを向けても、至近距離まで歩み寄っても、悠然とそこに立ち続けるアオサギ。
その動じない姿は、九鬼町という街が持つ、のんびりとした、それでいて揺るぎない信念を象徴しているかのようだ。

神域と青の境界

集落から少し離れた、九木神社(くきじんじゃ)。そこには、悠久の時を止めたかのような国指定天然記念物「九木神社樹叢(じゅそう)」があった。

木々のわずかな隙間から覗く九鬼の海は、原生林の深い緑に縁取られ、まるで異世界の窓のように眩い光を放っている。
ここは、人が作り上げた安全基準の及ばない、自然と神性が直接触れ合う境界線なのだ。

潮風に宿る、大漁の祈り


参道の傍らに、海を向いて立つ小さな鳥居がある。
その柱に据えられた二匹の「鯛」の像が、町を見守っていた。
九鬼の人々にとって、海は恵みを与えてくれる神そのもの。
その愛らしくも力強い信仰の形に、この町が海と共に生き抜いてきた時間の重みを知る。




名もなき願いが積もる場所

石の鳥居の貫(ぬき)の上に、そっと積まれた無数の小石には、ここを訪れた人々の小さな祈りが宿っている。
石段の上から見下ろす、永遠の青

参拝を終え、振り返った光景に心奪われた。
石段の下、鳥居の向こうに広がる、一切の濁りのない九鬼ブルー。
神域の静寂と、海の生命力が一直線に繋がるこの場所。
この石段の上から見下ろした景色は、きっといつまでも色褪せることなく、訪れる者の記憶に刻まれることだろう。

生活の体温と、にらくらの神


九鬼の路地は、とても絵になる。 西日差す赤い郵便受け、崩れかけた廃屋の奥に残るかつての日常。

その路地の合間に突如として現れるのが、石垣に囲まれた広場、「にらくら祭り」の祭祀場だ。

新調された二匹の鯛が守るその場所では、元旦の早朝、厄介な存在であったウニ(ニラ)を駆除し積み上げた「蔵」の跡で、消し炭と塩水を混ぜた「黒い泥」を子供たちに塗る禊が行われる。
負の存在を転じて無病息災を祈る人々の逞しさが、今もこの町に息づいている。

真巌寺

さらに奥へ進むと、九鬼の信仰の象徴、真巌寺(しんがんじ)が姿を現す。


境内に咲く寒椿。

見上げれば、巨大なクスノキが空を覆っている。
瓦屋根の波濤と九鬼ブルー

真巌寺の山肌を縫うように朱色の鳥居が連なっている。


最後の石段を登りきって振り返ったその瞬間——。
赤い鳥居のフレームが、九鬼のすべてを切り取った。
密集する瓦屋根の重なり、その隙間に息づく人々の営み、そして遠くに広がる穏やかな湾の青。
それは、九鬼町で最も美しい光景だった。

海面を覗き込む、家族の記憶

ガードレールのない岸壁で、深い碧を覗き込む親子の後ろ姿があった。
この町の美しい風景は、きっとこの家族にとって、何物にも代えがたい思い出として刻まれる。
この町を歩いた記憶が、いつか心の中で九鬼の海のように、キラキラと輝き続けることを願って。

