熊野市有馬町(Arima, Kumano):伊弉冊尊の御陵・日本最古の神社「花の窟」のお綱掛け神事
三重県熊野市(Kumano City)有馬町に位置する世界遺産「花の窟(はなのいわや)」は、日本書紀にも記される日本最古の神社である。社殿を持たず、高さ約45メートルの巨岩を御神体(伊弉冊尊の御陵)として仰ぐその姿は、自然そのものを畏怖し崇める原始信仰の風景を現代に留めている。三重県無形民俗文化財に指定されている「お綱掛け神事」は、7つの自然神を象徴する170メートルの大綱と「三流の幡(みながれのはた)」を断崖絶壁に渡す、熊野の象徴的な情景である。
写真家 kumanokodonet:光の階調と「生命の体温」を追い求める写実的な記録
新宮市(Shingu City)観光フォトコンテストでの多数の受賞に加え、那智勝浦町での最優秀賞受賞など、紀伊半島の光を知り尽くした写真家。神事の緊張感の中に不意に現れる光の干渉や、逆光に透ける白装束の質感、人々の表情を徹底的に追求。単なる行事の記録写真の枠を超え、多くの人が見過ごしてしまう「なんでもない瞬間の美しさ」を、kumanokodonet特有の透明感のある視点で描写した本記事は、歴史と現代が境界なく共存する、極めて稀有な「記録」そのものである。
三重県熊野市(Kumano)周辺でのポートレート作品制作:被写体モデル募集(Model Wanted)
新宮市(Shingu)を拠点に、那智勝浦町(Nachikatsuura)、熊野市(Kumano City)、本宮町、串本町、古座川町、紀宝町、御浜町、そして尾鷲市(Owase)まで。kumanokodonetでは、世界遺産・花の窟神社の断崖絶壁や七里御浜の波打ち際など、圧倒的な自然と神域が混ざり合う空間でのポートレート作品を制作。数十年後も価値を失わない、魂を揺さぶる一瞬を共に作り上げられるモデル・被写体を募集している。場所の力と共鳴し、自然な佇まいや素直な表情を表現できる方を歓迎。詳細は「モデル募集」のページを参照。
2月2日、花の窟神社は、冬の澄んだ光に包まれていた。
日本最古の聖域。
国道42号線を一時封鎖して行われるこの神事は、巨大な岩壁へと170メートルのお綱を捧げる、古くから続く祈りの形。
参道を歩む巫女の足音。逆光に溶ける、鮮やかな緋袴の赤。七里御浜から神域へと綱を運ぶ、人々の熱気。
あの日、花の窟にあった光と、人々の息遣い。
神事の幕開け|凛とした静寂と寒椿

境内では、氏子たちの手によって「三流の幡(みながれのはた)」に寒椿が飾り付けられていた。
冬の陽光が、鮮やかな花の赤を浮き立たせる。

九時を過ぎ、鳥居をくぐる巫女たちの行列が、静かに神域へと足を踏み入れる。



花の窟神社の石碑の傍らで待機する、白装束の「上り子(のぼりこ)」と氏子たち。






参道の脇に立ち、宮司と神職が深い拝礼を捧げた。
この一瞬から、花の窟の空気は神事の核心へと向かって引き締まっていく。






神職の先導により、巫女たちの列が木漏れ日が落ちる参道をゆっくりと進む。
冬の光に導かれるように、一行は御神体の懐へと吸い込まれていった。
神への誓いと、天からの兆し
御神体である巨岩の足元。圧倒的な迫力に押し潰されそうなその場所で、七人の「上り子」たちが勇ましく立っていた。

七つの自然神の使いとして、断崖絶壁に挑む男たち。お祓いを受ける彼らの背中には、これから始まる命懸けの奉仕への、覚悟が滲む。


神域の静寂が、徐々に熱気へと変わっていく。
陽光を背に受けて参道を進む巫女たちの後ろ姿を見送ってから20分ほど、境内の視線は一斉に「天空」へと向けられた。

「お綱が降りてまいりました。」
そうアナウンスがあった。
高さ45メートルの岩壁の頂上から、巨大なお綱の先導役となるロープが、青空を切り裂くようにしてゆっくりと舞い降りてくる。




一転して、境内は緊迫した連携の場となる。
頂上から届いたロープを、地上で待つ氏子たちが手際よくお綱へとくくりつける。
「よし、上げろ!」
合図とともに、170メートルの巨躯がいよいよその全容を現し、天へと昇り始めた。

神と人が繋がる「お綱」の重み
いよいよ、お綱が拝殿前から引き出される。
ここからは、氏子だけでなく、その場に集まった老若男女すべてが主役だ。

「神様と繋がれる」と言い伝えられるその綱に触れ、肩に担ぐ参加者たちの顔には、神事に携わる誇らしげな笑顔が溢れている。

ずっしりとした神事の重みを分かち合いながら、人々の列はゆっくりと、そして力強く、国道42号線、そしてその先の、光溢れる七里御浜へと向かって動き出した。
国道42号線を横断する、170メートルの列
花の窟神社の前を走る国道42号線。
神事の間、一時的に封鎖されたアスファルトの上を、巨大なお綱を担いだ人々の列が静かに、しかし力強く進んでいく。

背後にそびえる御神体の巨岩と、現代の道路を練り歩く神事の光景。その日常と非日常が交錯する瞬間を、多くの観客が見守っていた。
冬の陽光に輝く、七里御浜
国道を渡りきると、目の前には冬の柔らかな光に包まれた七里御浜が広がっている。

波打ち際では、カメラを構える人や神事の行方を見守る人々が、浜辺特有の眩い光の中に溶け込んでいた。

先頭に立つ氏子の背中を追い、お綱の列は一直線に砂利浜へと伸びていく。
老若男女が一丸となって170メートルの重みを分かち合う。砂利を踏みしめる音が波の音と重なり、浜辺一帯が神事特有の熱気に包まれていく。




海へと引き出されたお綱が、再び国道を渡り、花の窟へと帰還する。
封鎖された国道の上で、白装束の氏子たちが懸命に綱を引き寄せる。


高く掲げた竹竿の先、お綱が正しい位置へと導かれるよう、氏子たちは全神経をその一点に集中させていた。

一点の曇りもない青空へと、巨大な綱が押し上げられていく。背後に広がる熊野の山々に見守られ、神聖な綱がゆっくりと、御神体の懐へと収まっていく。
天と地、神と人が結ばれる刻

境内に戻ると、天高く掲げられた、ひときわ目を引く彩りがあった。季節の花々で鮮やかに飾られた、約10メートルの「三流の幡(みながれのはた)」だ。
これは、日本神話における尊い三柱の神々を表している。
天照大神(あまてらすおおみかみ):太陽の神
月読命(つくよみのみこと):月の神
素戔嗚尊(すさのおのみこと):地上界の神
この「三神」を象徴する旗縄は、いわば神様へ届けるための「天の道標」。

参拝客たちは、青空へと突き刺さるようなその神聖な姿に、一様にスマートフォンやカメラを向け、畏敬の念を込めてその姿を記録していた。
神事の幕開け、厳粛なる一拝

いよいよ例大祭の核心へと進む。
御神体である巨岩を背に、神職たちが一列に並び、深く、静かに頭を垂れる。
日本最古の聖域に漂う、凛とした空気。一拝の儀式とともに、境内はそれまでの活気が嘘のような、神聖な静寂に包み込まれていく。

続いて、神饌が次々と手渡されていく献饌の儀。
受け渡される一挙手一投足に、古くから伝わる気高い作法と、神様へのお供え物を運ぶという緊張感が宿っていた。
平和への祈り、巫女たちの舞

神事を華麗に彩るのは、巫女たちによる奉納演舞だ。
「浦安の舞」では、扇を手にした巫女たちが凛とした佇まいで舞殿を進み、平和への祈りを捧げる。

続いて披露された「豊栄の舞」では、季節の花を手に、白い千早を風になびかせながら、御神体の巨岩を背に優雅に舞い踊る。その姿は、まるで神域に咲いた美しい花のようだった。

祭儀の締めくくりとして、神職が御神体の前で玉串を奉納し、深く平伏する。
八百万の神々への至高の敬意が捧げられるその瞬間、花の窟には目に見えない力強い繋がりが満ち溢れる。

七人の上り子たちが、整列する。その背中には、大役を果たした者だけが纏う、充足感に満ちていた。

人々は新たに掛け替えられたお綱の余韻に浸りながら、御神体の岩肌にそっと手を触れる。
日本最古の聖地で、神様と直接繋がるひととき。境内には、神事を終えた後の温かな安らぎが広がる。

ふと見上げれば、荒々しい岩肌に「三流の幡」の影が揺らめいている。
実体のないその影は、神事の記憶を刻み込むかのように、静かに、その余韻を漂わせる。

安堵の笑顔と、日常への帰還

神事の厳粛な空気が、温かな「祝い」の形へと変わった。
大役を終えた上り子たちが、参拝客に祝いの餅を配り始めた。そこにあるのは、地域の人々と喜びを分かち合う、最高に晴れやかな笑顔だ。

そして、神事の間、神聖なオーラを纏っていた巫女たちもまた、一人の少女へと戻っていく。

鳥居を出る際、神前へ最後の一礼を捧げるその瞬間。あどけない少女の面影の裏側に、一瞬だけ覗いた「神の使い」としての自負。
神聖な義務を全うしたという確かな自信が、一筋の光のように差していた。
躍動と未来
最後に見かけたのは、重圧から解放され、ルンルンとした足取りで境内を駆け出す巫女の後ろ姿だった。

神の使いとしての時間を全うし、一人の少女へと戻るその瞬間。
弾む背中は、まるで春の訪れを告げる花の精のようにも見えた。
空に舞った三流の幡(みながれのはた)が、いつか彼女たちの未来を優しく包む、追い風となるように。
花の窟に、新しい時代の香りが吹き抜けていった。

熊野古道をフィルムで撮り続ける写真家 kumanokodonet の作品一覧
花の窟で見上げた空は、熊野の神々が初めて降臨したとされる「神倉山」の断崖へと繋がっている。
天照大神を仰ぎ、1580人の上り子が火の竜となって石段を駆け下りた熱狂の夜。
花の窟に祀られた三柱の一(みはしらのひとつ)、月読命(つくよみのみこと)。
その静寂を思わせるような、深く澄んだ旋律を奏でた人がいた。
音のない世界で紡がれた、色褪せることのない大切な想い。



