三重県紀宝町神内に鎮座する「神内神社(こうのうちじんじゃ)」。古くより「子安の宮」として親しまれ、安産や子授けの信仰を集めるこの聖域は、自然の磐座を直接拝む古い形態を今に伝えている。
2026年1月、境内の案内板や鳥居、諸社が全面的に刷新された。参道を進んだ先に現れるのは、高さ約100mの巨岩(磐座)を仰ぐ古代祭祀の原風景だ。
2010年に番組「たけしの教科書に載らない日本人の謎」の収録でビートたけし氏が来社・全国放映されたことや、宗教人類学者の植島啓司氏によって「日本の聖地ベスト100(2012年)」の10位に選出されたことは、地区住民が自らの地元の価値を再認識する大きな契機となった。
本記事では、御神木「安産樹」や拝殿を埋め尽くす奉納されたよだれかけ、そして南に位置する「古神殿」との関連性を含め、巨岩と信仰が共存する聖域の「今」を、事実に基づきアーカイブする。
神内神社へのアクセス
県道141号を走行すると「子安の宮」の案内看板が現れる。

ここを右折。

続いて現れる分岐の看板を左折し、約200mほど進むと鳥居前の砂利敷き駐車場に到着する。

入口付近
古神殿と対をなす巨石

神内神社の入口、駐車場の傍らに鎮座する巨石。この岩は神事の対象にもなる、神内神社の象徴的な存在である。
神内神社(子安の宮)
(神内名所の子安の宮は可愛い産子の守り神)
引用:神内神社 案内板
案内板:神内神社樹叢、神内神社、佐倉宗吾宮について

三重県指定天然記念物 昭和十六年十二月二日指定
神内神社樹叢(こうのうちじんじゃじゅそう)
所在地 紀宝町神内字近石九五八番地神内神社は、石英粗面岩(熊野酸性岩)の岸壁をご神体として祭った原始宗教の名残りのもので、多数の水蝕洞穴があり岩面には着生植物が多い。神社の境内には着生植物、シダ植物を含めて約三〇〇種の植物が繁茂している。
この森すべての植物を保護することは言うまでもないが特に保護保存に心がけねばならないものをあげれば、木本類ではクスノキ(巨木)、ホルトノキ、イヌマキ、ミサオノキ、ヤマモガシ、アラカシ、タカオ、カエデ、ヤマビワ、イスノキ、オガタマノキ、カンザブロウノキ、イヌガシ、ナギ、モッコク、シダ植物では、キクシノブ、ナンカクラン、タカノハワラボシ等は珍しく貴重なものである。神内神社(こうのうちじんじゃ)(子安神社(こやすじんじゃ))
所在地 紀宝町神内字近石九五八番地
祭 神 天照大神(あまてらすおおかみ)
天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)
鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
創 立 「明細帳」に不詳とあり、棟札には天保七年二月再建とある。由 緒 「明細帳」に「当社の義は近石と申すところに逢初森(アイソメモり)というのがあり、そこに伊弉諾尊(イザナギノミコト)、伊弉冉尊(イザナミノミコト)天降らせ 一女三男を生み給う、この神を産土神社(ウブスナジンジャ)と崇め奉る、よってこの村の名を神皇地(コウノチ)と称す。いつの頃よりか神内村(コウノウチムラ)と改むと言い伝う」とあり。明治三十九年十二月二十五日、三重県告示第三八〇号を以って神饌幣帛料供進社に指定される。社殿は自然成岩窟にして空間六尺(約一.八メートル)四方あり、境内六反八畝一〇歩。近郷の人、子安の神、安産の神として参詣するもの多い。また豊漁の神として近隣の漁師の信仰厚い。
(紀宝町発行「文化財を訪ねて」抜粋)(神内神社所蔵文書抜粋)
引用:神内神社 入口 案内板
紀宝町教育委員会

佐倉宗吾宮
鳥居を潜って十六メートルすすんだ右手山側に、大きな岩窟(拾石窟)があり、神武天皇や明治天皇をお祀りし、その脇の岩屋に佐倉宗吾宮がある。
何時の頃どういう理由でここに祀られたかについての記録はないが、おそらく徳川時代初期の重税に苦しめられた農民を救うために、自分だけではなく家族も極刑になることを覚悟の上で直訴におよんだ宗五郎を神として敬い、大飢饉による餓えと年貢の取り立てに苦しめられるなかで、重税の軽減を願って、嘉永年間に祀られたものと思われる。
徳川時代後期の神内村は、見えて千石隠れて千石と云われる豊かな郷であった
天明(一七八三頃)の冷害による大飢饉、更に天保(一八三三頃)の大飢饉が、ここ紀州地方をも襲い、食べ物を求めて来て、行き倒れとなった人々が見られたという。
佐倉宗五郎については、いろいろな異説もあるが、江戸時代初期の承応二年(一六五三)徳川四代将軍家綱が寛永寺参詣の折り行列に、堀田正信苛政の訴状を差し出した。その結果、加重年貢は免除されたが、佐倉藩主堀田正信の激怒にふれ、宗五郎と妻は磔獄門、四人の子供は打ち首となる。
領主堀田正盛の時代はそれ程でもなかったが、息子正信が領主になるや、軍備拡張に異常なまでの意欲をもやし、急に苛斂誅求(人民から税金その他を厳しく取り立てる)に転じた。その重税に苦しむ村が二〇〇ヶ村、他領に逃げ出す者一七〇〇人に及んだという。
下総国(千葉県)佐倉藩印旛郡公津台方村の名主佐倉宗五郎は、この村々の総代として、義のために奮起し単身直訴に及んだ義人である。
神内神社の元宮司阪本源十郎氏宅に、佐倉藩印旛郡 鳴鐘山・東勝寺製作の、宗五郎霊像の古い掛け軸が残されている。東勝寺に依頼しての調べで、寛永年間に製作されたことが判明した。
宗五郎は 嘉永年間(一八五一頃)に義人として歌舞伎に登場するや、一躍全国にしられるようになった。
江戸後期には百姓一揆に宗五郎の義が重んじられ、明治時代には自由民権運動の先駆者として登場し、宗五郎義民伝として定着した。
更に、昭和の時代は金銭恐慌、そして戦争と敗戦を経験しつつも、宗五郎物語は新たな解釈を伴いながらつづいてきた。
二十一世紀に入ったこんにち、義人宗五郎は平成の農業政策をみて、我々に何をかたりかけているだろうか。平成二十一年十一月吉日
引用:神内神社 入口 佐倉宗吾宮 案内板
紀宝町教育委員会
石造鳥居

2026年1月、神内神社の鳥居は苔が落とされ、本来の石肌が見えるまで綺麗に磨き上げられていた。
安産樹(御神木のホルトノキ)

鳥居の傍らに立つのは、三重県指定天然記念物の御神木、ホルトノキ。この大樹は成長の過程で足元の石を巻き込んでおり、その姿から古くより「安産樹」として親しまれている。
2026年1月には案内板も新調された。

ホルトノキ、樹齢七百余年、鎌倉時代から幾代にわたり、氏子が受け継いで来た大切な樹で大きな自然石を抱ている安産の神の樹として崇められている
引用:安産樹 案内板
(郷土資料群より抜粋)令和八年一月 田尾和生
安産樹に咲くセッコクと掲示板

5月になると、この安産樹の樹上にセッコクの花が咲き誇る。

苔むした古い木肌と、そこに咲くセッコクの白のコントラストが美しい。

告示
引用:境内 掲示板
神内神社宮司
此処、神内神社の境内は 三重県指定の
天然記念物となっています
樹木・シダ類及びセッコク・カンラン等の
採取を堅く禁じます
カンラン寄贈者
川原田豊 竹内行雄
岩窟内の三つの諸社
右手には、岩窟を活かした聖域が広がっている。

2026年1月の改修により、神武天皇御社の石碑や案内看板が刷新された。


参道修理
引用:参道修理 石碑
平成十五年十月
阪本正文
竹鼻三代治
竹内行雄

巨岩の隙間の暗がりのなかには、神武天皇、明治天皇、そして義民・佐倉宗吾を祀る御社が鎮座している。
神武天皇御社


神武天皇
神武天皇は、九州日向(ひむか)で生まれ、国の中心大和を目指して東征(とうせい)する。
生駒越えを試みたもののナガスネヒコに阻まれ、兄を失う
日神の子孫らしく日を背にして戦おうと熊野、吉野へ迂回し
宇陀、磯城での戦いに勝って国中に入り、葛城、添等も平定して橿原宮で初代天皇として即位する神内神社では、この宮の入り口に神武天皇の石碑を建て初代天皇としてお祀りしている
(県民だより奈良より抜粋)
引用:神武天皇御社 案内板

神武天皇御宮の主な祈願
一、安産祈願、交通安全
二、厄除祈願、長寿祈願
三、国家安秦、五穀豊穣、他神武天皇が初代天皇として即位した橿原神宮の御利益と同じです
引用:神武天皇御社 案内板
明治天皇御霊


明治天皇
1867年十六歳で、第122代天皇となる。翌年、五箇条の御誓文を出し、新しい国造りの基本方針を定める
1889年、大日本帝国憲法を発令し、近代国家の基礎を作る天皇の思想として強かったのが国を治めるには、まず臣民の気持ちを第一に考えなければいけないということ。そのため明治前期においては、地方行幸を頻繁に行うなど、臣民の生活を常に気にかけていました
このような天皇を当時の神内の臣民が尊び、御霊(みたま)として御祀りしています
引用:明治天皇御霊 案内板

明治天皇御霊宮の御祈願
一、縁結、夫婦円満、家内安全
二、合格祈願、必勝祈願
三、商売繁盛、厄除け、開運明治神宮と同じご神体のお宮祈願事項もほぼ同じものです
引用:明治天皇御霊 案内板
佐倉宗吾宮


佐倉宗吾宮
昭和十五年十一月十日建
紀元二千六百年記念
奉獻
引用:佐倉宗吾宮 石碑
地當
森岡まさ五十才
更谷まさの四十七才
岩本あさ四十三才
阪本はつ三十二才


佐倉宗吾宮
佐倉宗吾宮につきましては、当神社鳥居前の掲示板にて、紀宝町教育委員会より、詳しい説明がなされています
ぜひ御一読ください下総国(千葉県)佐倉藩印旛郡公津村の名主
佐倉宗五郎は民のために奮起して単身直訴に及んだ義人としてお祀りしています(抜粋)神社総代
引用:佐倉宗吾宮 案内板
神内神社の参道

深い樹叢(じゅそう)に包まれた参道には、杉の巨木が並び、湿り気を帯びた空気が漂う。


参道右手には寄進石柱が並ぶ。

一金一萬五千圓
引用:参道 寄進石柱
昭和四十六年六月十七日
當地氏子
荘司半三郎
夫婦杉

参道の左手に、二本の大杉が寄り添うように立つ「夫婦杉」がそびえている。


2026年1月に磨き上げられた「天然記念物 神内神社樹叢」の石碑が、この神社の価値を示している。
参道横を流れる神内川

参道の傍らを流れる神内川の清流。水辺へと続く石段が整備されており、その構造は伊勢神宮の御手洗場を彷彿とさせる。
岩壁前の手水舎

参道の突き当たり右手に、岩壁を背にした手水舎(てみずや)が設置されている。

自然石を加工した水盤が置かれ、奉献された龍の口から水が注がれている。

奉献
一、龍の口
一、手摺り竹鼻三代治
阪本正文
竹内行雄
田尾順司
前田正
下沢深
川原田保平成十六年十一月吉日
引用:手水舎 石碑
狛犬と石碑、寄進石柱

現在、拝殿下に据えられている狛犬。かつては本宮とされる古神殿に安置されていたという。



祈願
五穀豊穣
氏子の幸福
交通安全昭和五十二年 十二月 吉日
当地氏子 田中三代太郎 建立
引用:拝殿下 石碑

奉納されたよだれかけが壁を埋め尽くす拝殿と殿舎内部

参道の突き当たり、岩壁の狭間に拝殿が姿を現す。

2026年1月、石段の登り口に足元注意を促す案内板が新設された。
御注意
引用:階段登り口 案内板
この階段は途中に踊り場がなく、長いため昇降時は細心の注意をお願いいたします、階段自体は比較的やわらかい石で出来ていて、滑りにくい構造ですが、小さなお子様やご高齢の方は、踏み外しやつまずきに十分注意して、手摺りを利用してください
今後も清掃等事故防止に努めてまいりますのでよろしくお願いいたします

拝殿の壁面には、安産を願う人々が奉納した無数の「よだれかけ(スタイ)」が掛けられている。


拝殿内には、五柱の祭神の名を記したお神札が掲げられている。
神祭
引用:拝殿内のお神札
天照皇大神
天忍穂耳尊
彦火瓊々杵尊
彦火火出見尊
鸕鶿草葺不合尊
殿舎内部

拝殿の左側にある殿舎の内部。神棚と、奉納された千羽鶴が並ぶ。

記帳台や案内が整えられた、殿舎内の受付スペース。

安産祈願のスタイ(よだれかけ)など、子安の宮らしい授与品。

撮影した3月9日時点でも、カレンダーは2月のまま。時間が止まったようなのどかな雰囲気。

多くの願いが書き込まれ、殿舎に奉納された白石。
高さ約100mの御神体の磐座

拝殿の背後には、巨大な磐座が鎮座する。
一般的な神社建築としての「本殿」は見当たらないが、この磐座そのものが御神体であり、地元の資料ではこの聖域を「本殿」と記している。
磐座には、祈願の証として多数の白石が奉納されている。

巨大な岩そのものを御神体として崇めるこの形式は、花の窟神社などにも見られる熊野の古い祭祀の姿だ。

少し離れた場所から、御神体である磐座を眺める。
高さは約100mとされる。そのあまりの大きさに、言いようのない畏敬の念が込み上げてくる。
胎内くぐりもできる蘇りの木

拝殿の左側には、「蘇りの木」と呼ばれるクスの大樹がそびえ立つ。


神内神社は「子安神社」の別名があり、この巨樹も安産や生命の再生を象徴する存在だ。


幹の根元には、大人が一人、体をねじ込むようにして通り抜けられる狭い空洞がある。
「胎内くぐり」と呼ばれるこの空洞を通り抜けることは、古くから新しい命を授かる、あるいは自分を生まれ変わらせるための習わしとして伝えられてきた。

戦没者を祀る表忠碑

駐車場エリアには、日露戦争等の戦没者を祀る表忠碑が建立されている。

表忠碑
明治時代の日露戦争の戦没者や戦争従軍者を表記しています。設置時の文献がありませんので詳しい事はわかりませんが、従来より神内にお住まいの方なら、なじみのある名前があると思います、貴方のご先祖かも。ぜひ一度裏面を御覧ください。
神社総代
引用:表忠碑 案内板

案内板に従い裏面へ回ると、郷土の戦没者の方々の名が刻まれている。
神内神社の基本情報
- 所在地
- 三重県南牟婁郡紀宝町神内958
- 御祭神
- 天照皇大神、天忍穂耳命、彦火瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊
- 例祭日
- 11月23日(例大祭)
- アクセス
- JR紀勢本線「紀伊井田駅」より徒歩約20分。または「新宮駅」より車で約10分
- 駐車場
-
あり(無料。鳥居付近に約20台分の駐車スペースあり。通常は空いていることが多い)
ストリートビューで周辺を確認する
- 参拝時間
- 自由(夕刻以降は神内川沿いの足元に注意)
- 備考
- 別名「子安の宮」。社殿を持たず巨大な磐座を御神体とする古代祭祀の原風景を残す。神内神社樹叢(県指定天然記念物)の森に包まれた、安産・子授けの聖域
- 問い合わせ先
- 0735-33-0334(紀宝町役場 企画調整課 観光係)
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本稿は、KVAが現地調査および撮影を遂行し、独自に編纂した一次アーカイブである。
土地の文脈と対象の本来の姿を尊び、その記録の客観性を担保する。
時代の断片を後世へ繋ぐための、公的な視覚資料としてここに認定する。
© 2026 KVA
古神殿 | 原始の祭祀場と「胎内」の記憶
神内神社から南へ約100m。奈良時代以前の神殿と伝わり、かつては現在の神内神社の「本宮」としての役割を担っていた聖域。植島啓司氏が「子宮」と表現した巨岩の胎内と、2026年現在の登拝道の記録。



